
はじめに
「トガニ 幼き瞳の告発」を観て、最後に心に残ったのは、
なぜ、ここまで明らかな出来事が、正しく裁かれないのかという疑問でした。
この作品は、観終わったあとに何かが解決する映画ではありません。
むしろ、「なぜ」という問いだけが、静かに、しかし確かに残り続けます。
あらすじ
恩師の紹介で聴覚障害者学校に赴任することになった美術教師のカン・イノ(コン・ユ)。赴任先の学校は、どこか異様な雰囲気に包まれていた。ニコニコと人当たりはいいが目の奥で人を窺うような不気味な校長、そして教職に就くための不正な金を平然と要求してくる校長と瓜二つの双子の弟。何より生徒たちのおびえたような表情に違和感を覚えるイノ。職員室で平然と生徒を袋叩きにする男性教師、稼動している洗濯機の中に女生徒の顔をおしつけるという常軌を逸した暴行を加える女寮長・・・。怒りを覚える中、女生徒から聞き出した新たな事実は、複数の生徒たちが校長をはじめとする教師たちから、日常的に性的虐待を受けているというあまりにおぞましいものだった。 怒りに燃えるイノはユジンらと共に、マスコミの力を利用し真実を暴くことを決意する・・・©2011 CJ E&M CORPORATION,ALL RIGHTS RESERVED
霧の都市という比喩
この作品の舞台となるムジンは、金承鈺の代表作「ムジン紀行」で描かれた、
霧に包まれた都市として知られています。
そのため、この物語に漂う曖昧さや閉塞感は、どこかその「霧」のイメージと重なって見えます。
霧は視界を奪い、輪郭を曖昧にし、すべてを覆い隠してしまう。
まるでこの事件そのもののように、何が起きているのかが見えにくく、真実さえもぼやけてしまい、真実は霧の中に沈んでいくように感じます。
真実と制度のあいだ
この映画で繰り返し感じたのは、
真実そのものと、「認められる真実」とのあいだにある隔たりでした。
証拠がなければ、なかったことにされる。
証拠があっても、消されてしまうように感じる。
どちらにしても、真実が届かない。
そんな構造の中で、
何を信じればいいのか、わからなくなる。
一方で、都合よく整えられた言葉は、
事実であるかのように受け取られてしまう。
そこでは、何が起きたのかではなく、
何が通用するのかが優先されているように感じられました。
守られる側と守られない側
本来、弱い立場にある人を守るための仕組みが、
結果として、別の形で不均衡を生んでしまう。
加害者は組織や立場によって守られ、
被害者は証明の難しさによって追い詰められていく。
守られるべき存在が守られないという現実が浮かび上がります。
示談という「終わり」
裁判は、示談という形で区切りを迎えます。
法的には「解決」とされるその結果も、
感情の面では何も終わっていないように感じられました。
被害は消えておらず、
痛みもまた、そのまま残り続けている。
それでも出来事は「終わったもの」として処理されてしまう。
その違和感が、強く残ります。
揺れる人間の姿
主人公は、正しさと現実のあいだで揺れ続けます。
「自分と家族を食べさせていくにはきれい事ばかり言ってられない。 お前、娘のソルよりその子のほうが大事かい? 」と責める母に彼は言います。
「 この子がひどい目に遭った時、僕もそこにいた。でも何もできなかった。今この手を放したらソルにとっていい父親になれる自信がない」
家族を守るという現実。
それでも見過ごすことができないという思い。
その姿は、決して特別なものではなく、
むしろ、誰にでも起こり得る葛藤として胸に迫ります。
許されないまま残るもの
謝罪もなく、責任も曖昧なまま、
出来事だけが終わらされていく。
その中で、「許せない」という感情だけが取り残される。
許しとは本来、当事者のものであるはずなのに、
それすらも置き去りにされてしまう現実がありました。
奪われた未来
この子は聴くことも話すこともできません。この子の名前はミンス。聞くことも話すこともできません。皆さん、この子の名前はミンスです。、聞くことも話すこともできません。忘れないであください。この子の名前はミンスでといいます。
本来なら、守られ、幸せに生きていくはずだった命があります。
もし裁判が正しく機能していたなら、
違う未来があったのではないか。
その「もし」が、観終わったあとも重く残り続けます。
セリふ

世界で一番美しくて大切なものは聴くことも見ることもできません。心でしか感じられないものなのです。 ヘレン・ケラーが言った言葉の中で僕が一番好きな言葉だ。
私たちも他の人と同じように大切な存在だと知ったこと。
私たちの戦いは世界を変えるためでなく世界が私たちを変えないようにするためだと。
冬が寒いのはそばにいる人のぬくもりを感じるためだそうです。
関連作品について
本作は、韓国の作家 コン・ジヨンによる小説を原作としています。
同じ作家の作品として、
「私たちの幸せな時間」 という映画もあります。
こちらは、死刑囚と向き合う物語であり、
被害者でありながら、やがて加害者として裁かれていく人間の姿を描いています。
『トガニ』が「裁かれない現実」を描く作品であるのに対し、
この作品は「裁かれる側の内面」に焦点を当てています。
二つの作品をあわせて観ることで、
正義や罪、そして赦しについて、より深く考えさせられます。
「私たちの幸せな時間」については別の記事で書いておりますので、よろしければあわせてご覧ください。
最後に
映画には、本来、観る者に何らかの救いを与える側面があると思います。
現実では叶えられないことを疑似的に体験し、
その中で満足やカタルシスを得ることも多いでしょう。
しかし、この作品にはそれがありません。
残るのは、「なぜこうなるのか」という問いだけです。
実際に起きた事件であり、
証拠もあり、何があったのかも明らかであるにもかかわらず、
なぜ加害者が社会に戻ることができたのか。
その現実が、どうしても理解できませんでした。
法律とは何なのか。
誰を守るために存在しているのか。
これまで新聞などで似たような事件を目にしたことはありましたが、
それが表に出るまでに、どれほど多くの人が関わり、
どれほどの勇気が必要だったのか。
この映画は、その見えなかった重さを強く感じさせます。
だからこそ、願わずにはいられません。
このような出来事が、これから先、二度と起きないことを。
※今回の記事は、映画を観ながら感じた私自身の考えや感想をもとに、ChatGPTに文章整理のサポートをしていただきました。
